自然体で生きるのがいいと思っても、なかなかそうできないのが人間である。
自己嫌悪に陥る最大の原因は、高く設定した自分に対する理想水準を下げられないことにある。
しかし、たとえば「課長になったんだから、部下にスキは見せられない。威厳を保たなければ」などと、あるがままの自分とはかけ離れた「理想像」に自身をはめ込もうとすることに、どれほどの意味があるのだろう。
つまらない威厳のために、せっかく持ち合わせている豊かな人間味を失うことになったら、もったいないではないか。
「数いる課長の中に、一人くらいはこんなドジ課長がいたっていいじゃないか」
「部下から『オレたちがいなきゃ、課長はどうにもならない』と思わせるほうが、課の結束も固くなる」
私などは、そんな「あるがまま課長」に魅力を感じる。
自分の不平不満をつのらせるのは、不幸だ。
自分を認め、自分を好きになろう。
そのいちばんの方法が、あるがままの自分を受け入れることである。
自分を好きになれない人生は悲しすぎるではないか。
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ほどほどの環境、そこそこの自分
ビジネスマンには通勤はつきものだし、転職でみずから新天地を求める人も多くなっている。
そこで問われるのが、適応力である。
いくら仕事の能力が高くても、新しい環境にうまく適応できないと、それを発揮できないし、へたをすれば、環境への拒絶反応のため夢状態になることだってあるからだ。
適応するための心の技術は、二つあるような気がする。
一つは新環境に過度の期待をしないこと。
もう 一つは新天地における自分自身を過信しないことである。
新しい環境は未知であり、自分の期待通りであるという保証はどこもない。
期待が大きければ、ギャップがあった場合、失望感も大きくなる。失望感は適応の大敵である。
自分の能力を過度に評価し、「今度の会社なら、自分の能力を存分に活かせる」などと腕をならして乗り込んだ新天地に、自分よりははるかに優秀な人間がゴロゴロいたら、これも相当落ち込む。
高いと思っていた自分の能力を否定されるのは屈辱だからだ。
「ほどほどの新環境、そこそこの自分」という気持ちでいれば適応も早いだろう。
頑張らなくていい時もある
水は低きに流れ、時は未来に流れる。
誰でも、そんなことは百も承知のはずだ。
なのに人間は、しばしば時間の流れに逆らったり、何かを変えようと試みるものである。
たとえば、時代の流れに逆らう、会社の方針に抵抗する、老いに逆らう、といった具合にさまざまな抵抗がある。
そういう抵抗も、いいだろう。
あの不幸な戦争だって、抗する力がもっとあれば、どこかで方向転換ができたかもしれない。
しかし、自分の小さな意地や沽券(こけん)から、ちまちました抵抗をするのはどうだろう。
「あの上司とはどうもウマが合わない。もっと逆らってやる」
こんなのは、エネルギーの浪費と言えまいか。
しかも、抵抗するには非常なエネレギーがいる。
つまらぬ抵抗で消耗していたのでは、楽しさやおもしろさを享受(きょうじゅ)するエネルギーが枯渇(こかつ)してしまわないか。
時には抵抗したり頑張ったりするのをやめ、時間の流れのままにゆったりとかまえるのもいいのではないか。
下流には、未知の楽しみや幸福が待っているかもしれない。
頑張ったところで押しとどめようもないものに対しては、頑張らなくてよいのだ。