見返りを忘れるくらいが、ちょうどいい

人間関係に「利害」を持ち込むことを、あたかも悪いことのように思い込んでいる人がいる。

しかし、世の中のほとんどは利害関係で成り立っているということを忘れてはならない。

家族や学生時代からの友人は、利害と関係なく結びついている。

ときには、自分が損をすることを承知で助け合う。

だが、そんな関係のほうが特殊であって、たいていの関係は利害が取り持っているということを知っていれば、人との距離感も上手にとれるだろう。

 

ビジネス街にある喫茶店に入って、10組の客がいれば、そのうち少なくとも9組は利害関係にある。

険しい顔をして話し合っているグループは、その利害に偏りが出ているのかもしれない。

ニコニコしている人たちは、利害が双方納得できる形で存在しているのだろう。

いずれにしても、利害があるから関係性も生まれるのであって、彼らから利害をとってしまったら、ただの個人にすぎない。

利害というのは、他人であった人と人をつなぐ非罪常に重要な要素なのだ。

ただし、ここでいう利害とは、「ギブ・アンド・テイク」とはちょっと違う。

ギブ・アンド・テイクの考え方でいうと、利害はフィフティ・フィフティとなる。

しかし、世の中はそんなに単純ではない。

七割三割のときも、二割八割のときもある。

みんながそうした状況にあって、バランスをとりながら動いている。

ギブ・アンド・テイクでものを考えれば、「私はこれだけのことをしてあげたのに向こうはこれしか返してくれない」となる。

こうして、自分の行動を恩に着せたとたんに、相手との距離感がおかしくなる。

「私はいま、これだけのことをしてあげられる。これだけしかできないけれど、あくまで好意なのだからお返しはいらない」

こうした「ギブ・アンド・テイク」の関係でいるくらいでいい。

 

マザー・テレサは「強い愛とは分け隔てせずに、ただ与えるものだ」といった。

私たちは、そんなに立派ではいられないが、お互いがギブ・アンド・テイクで行動できたら理想だろう。

ふだんからきれい事をいっている人ほど、何もしてくれないのだと思い知った。

「〇〇さんにまた、いろいろ知人に紹介しますよ」などと調子のいいことを言う人間は、実際には、○○さんに興味を示さなかった。

そんな彼らはギブ・アンド・テイクの発想なのだろう。

○○さんからテイクするものが見えない限り、ギブなどしたくないのだ。

 

一方で、意外な人が大変な協力をしてくれた者がいた。

「どうして、この人はここまで一生懸命やってくれるんだろう」と○○さんは首をかしげるほどに、ギブ・アンド・テイクだったのである。

思わず、「なぜ?」と○○さんが尋ねた。

すると、「僕が入社して右も左もわからない頃に、○○さんにずいぶん助けてもらいました」という。

落ち込んでいるときに、映画の試写会の切符を渡して「これでも観てこいよ」などといったりしたらしい。

こちらをまったく覚えていない○○さんは、彼の助けになったようだ。

「そのうち慣れるから、最初から張り切るな」とも、私はいったらしい。

 

 

ギブ·アンド·ギブとは、そういうものだ。

「恩に着せよう」という発想ではなく、そのとき自分にできることを無理のない範囲でしてあげるだけでいい。

大げさなことは必要ない。

いや、むしろ大げさなことをしてはいけない。

大げさなことをしたとたんに、「あれだけしてあげたのに」と考えるようになるからだ。

ちょっとしたアドバイスをしてあげるとか、知っている人や店を紹介してあげるなどといったことで十分だ。

「してあげたことを忘れてしまう」レベルがいい。

そういうことを日常的にできる人が、いい利害関係を築けるのではないかと思う。