知らないことは知らないとはっきり言う

現代人は無数の情報が飛び交っている中で生きている。

日々接している新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのマスメディアから、また、仕事その他でつきあう人たちから、新しい情報が次々と飛び込んでくる。

所在ないままに家の外をぶらついているときでも、さまざまな情報にぶつかる。

 

情報化社会であるといわれて久しい。

そのために、人々の情報に対して与えている価値は高い。

そこで、すべての情報に価値があると思って、むさほるようにして情報を取り込んでいる人もいる。

多ければ多いほどよいという錯覚に陥っている。

単なるコレクションをしている結果になっていて、情報に囲まれて身動きができない。

そのようになったのでは、せっかく自分のところに入ってきた情報であるにもかかわらず、どれが有用かの見分けがつかなくなり、自分のために役立てることができない。

 

情報の「暴飲暴食」をしているにも等しいので、身体にとって「栄養」になるどころか、「消化不良」を起こしてしまう。

したがって、情報を上手に利用しようと考えている人は、情報を取り入れる際にも常に「腹八分目」を心掛けている。

ときには、休肝日ならぬ「休胃腸日」を設けて情報入手を最小限にしたり、「断食」と同じように情報を一切断ったりする場合もある。

そうすれば、個々の情報源の良否についても見極めができるようになると同時に、情報自体の有り難みにも考えを及ぼすことができる。

 

そのように情報収集を「選別的」にしている男は、大方の人が知っていることを自分が知らなくても、至極当然のことであると考えている。

たとえ一般的な常識であったり初歩的な知識であったりしても、自分が知らないときは知らないと、率直にいうことができる。

相手がはるかに目下の人であれ子供であれ「知らなかった」といって教えを乞おうとする。

知ったかぶりをして、その場をごまかすようなことはしない。

知っていたのか知らなかったのかわからないような態度をとる人は、ずるい人である。

積極的に何らの反応も示さないところが卑劣だ。

「消極的」うそつきの癖のある人といってよい。

 

知らないことが話題になったときに自分の無知を表明する男は、黙っているときはすべてわかっていることを示している。

したがって、重要な話を進めていっても誤解されることはない。

わからないことだけではなく疑問に思うことについても、必ず質問してくれるはずである。

相手も理解度や考えに対して臆測をしながら相対する必要がないので、本論に集中した話の進め方ができる。

要するに、安心して信頼できる相手なのだ。

積極的であれ消極的であれ、うそをつかないというのは、信頼されるための絶対条件の一つである。

どんなに頭がよくて知的能力が優れていたとしても、判断の基礎にうその部分があったのでは、その判断は間違う可能性が高い。

うそは事実無根であるから、そこから真実に到達できる道は、偶然の運に委ねるほかないからだ。

エラそうにして自分をプラスに見せようとする男は、中身の薄い男である。

中身がないので、表向きをつくろうのに全力を尽くす。

衣ばかり大きい天ぷらと同じだ。

貧弱な中身を見せたくないので、やたらに外側の衣ばかりを厚くする。

もしかすると中身は皆無に等しいかもしれない。

 

たとえマイナスの部分であっても、その中身を進んで見せようとする「勇気」が必要である。

一人の人間が持っている知識など、人間社会に蓄積されている知識に比べれば、けし粒にも等しい、このうえなく小さいものである。

自分が知っていることは、知らないこととは比較にならないほど少ない。

かなり多くのことがわかるようになったと思われている、現在の科学の世界においても、解明されていることは、わからないこととは比べようもなく少数である。

そのうえに、わからないことさえわかっていないことが、まだ無数にあるはずだしたがって、この世では、わからないことがわかっていることよりも多いのが当たり前である。

その現実を認識していない、ないしは認識しようとしない男は、非常識な男であると決めつけてよいであろう。

本物の男は、常識に基づいた言動をする。