善人は悪人に、悪人は善人に変わるもの

こちらは、いままでと同じ距離感でつきあっていたつもりが、相手の態度が突然、変わってしまって困惑した、という経験がある人は多いだろう。

かつて全盛期だった人気力士が、売れっ子女優と婚約した。

華々しいカップル誕生にマスコミが盛り上がったものの、わずか数カ月後には破局した。

その会見で、力士は「もう好きではなくなった」という内容のことをいった。

理由はどうあれ、公衆の面前でそれをいったら身も蓋もない。

「冷たい男だ」と、当時はずいぶん叩かれた。

しかし、あれほど正直なセリフもないと思う。

「かつては好きだったが、いまはもう好きではなくなった」というのは、誰にでも思い当たる話だ。

人は変わるのだ。

もっとも、この力士の場合は、何も悪事を働いたわけではない。

私たちが困惑するのは、「まさか、あの人が・・・」というような出来事に直面したときだ。

 

ある20代後半の女性は、中学、高校と生徒会長を務め、地元の国立大学に進学した姉が自慢だった。

しかし、有名企業に就職した姉は変な男に引っかかり、貯金のすべてを貢ぐようになる。

やがて、家族や知人に嘘をついてまで借金を重ねる人間になってしまった。

姉がそうなったこの女性にとっては、大変にショックな出来事だったに違いない。

しかし、「どんな人でも変わる」ということを、身をもって知る機会にはなったのではないか。

 

人は、そのとき置かれた環境次第で、よくも悪くも変わる。

それは、その人個人の問題というより、人間が感情を持ち、考える生き物だからである。

人間は動物と違い、いろいろ考えたり想像したりする。

だから、置かれた状況次第で言動も変わる。

どんなに立派な人であっても、環境が悪くなれば人間はとことん悪くなる。

 

ドイツの作家ゲーテは、次のように述べている。

「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる」悲しいことだが、これが現実だ。

誰からも慕われていたような人でも、職を失い金銭的に追い詰められたり、病気をして投げやりになったりすれば、人格まで変わってしまう。

そして、信じられないような事件を起こす。

借金を踏み倒された、保証人になっていた人が姿を消した、などという話はそこら中にあふれている。

そんな害が自分に及んだとき、性善説で生きている日本人は、「信じていた人に裏切られた」という言い方をする。

だが、私からすれば、日本人の性善説自体が間違っている。

キリスト教社会の欧米を見ればわかる。

たとえば、有名な「モーセの十戒」には戒めの言葉が並ぶ。

「次、盗むなかれ」

「汝、姦淫するなかれ」

「次、嘘をつくなかれ」

これは、「人はもともと盗むし、姦淫するし、嘘をつくのだ」という性悪説に基づいている。

だから、わざわざ「こういうことはしてはいけない」といわなければならないのだ。

 

とはいえ、まったく誰も信用しない性悪説で生きるのがいいとも思わない。

信じられる人がいるのは幸せなことだ。

ただし、相手の変化に鈍感でいたために「裏切られた」と騒ぐのは筋が違うだろう。

私は、性善説も性悪説も両方とっている。

最初から、いい人間や悪い人間がいるのではない。

人は、そのときどきの状況や環境によって、よくなったり、悪くなったりと変わる。

どれほど親しいと思っている人でも、その人との距離もたえず変化する。

そう思っていたほうが間違いない。

よくも悪くも、環境が人をつくる。

このことがわかっていたら、必要以上に相手に期待したり、勝手に自分で傷ついたりということも少なくなるはずだ。